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【巻頭言】 |
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現場主義のモデル化
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キャメル・ヤマモト |
中東、英国、米国、中国などで暮らしながら、折に触れて日本(企業、組織、人)の「強み」は何か考えてきた。特にここ数年は、シリコンバレーと上海という世界中の競合が様々な価値観やアプローチを持ち込み、競い合う場に身を置いて、彼我の比較をまのあたりにしている。そういう中で、勝ち残っている強い日本企業に、何か共通した強みがないかと模索してきた。どうやら、やはり、それは「現場」にある、と確認でき始めた。強い日本企業では、「現場が強い」というのは月並みな指摘であろうが、この「現場」がなかなかのくせものだ。それは現実にそこにある場であるから、そこに行って目撃すればよい。ところが、現場100回を試みても、実は何のことかわからない。現場は見えるが、現場の「秘密」は見えない。どうやら、現場の秘密は、そこで長きにわたって仕事をして初めて体得できる代物らしい。そんな現場はなかなか海外などには移植できない。本稿の目的は、そんな「現場の強さ」の正体に迫ることと、さらなる強化策を提示することだ。
さて、結論を先取りすれば、現場の強さには二つの源がある。第一の源は「業務プロセス」である。特に、製造現場の業務プロセスが優れているのだが、開発も、マーケティング・営業も、強い企業においてはそれなりのものとなっている。第二の強みの源泉は、業務プロセスを支える「人材プロセス」と「顧客プロセス」にある。業務プロセスに「人」を供給する「人材プロセス」と、業務プロセスが生み出すモノ・サービスを評価する「顧客」を生み出す「顧客プロセス」が、「業務プロセス」と流れるようにつながれば、業務プロセスは強くなる。人材、業務、顧客の3プロセスが、つながり、せめぎ合い、共鳴するようなダイナミックな場、それが強い現場である。
ここでは、「業務プロセス」と「人材プロセス」を掘り下げてみたい。
企業の業務プロセスは、すべて諸「情報」が諸「媒体」に転写されていく「プロセス」としてみることができる。情報産業はもちろん、製造業も、ものの構想が設計図になり、その設計図が、具体的な素材という媒体において表現されるプロセスにほかならない。開発者の頭という媒体に生じた情報が、設計者、製造者、マーケッター、営業など様々な人の頭や物質的な媒体(紙、CAD、材料、広告媒体、営業言語)を通じて連結されていき、最後に、顧客の身体という媒体にその情報が転写される。業務プロセスがうまく作動すれば、それが生み出すモノやサービスを、顧客が価値だと受け止め感動する。期待した感動が生まれなかったときも、プロセスが機能していれば、顧客から業務プロセスにその理由がフィードバックされて、スムーズに修正がかかる。ときには、人材プロセスにまでフィードバックがかかり、業務プロセスに送り込む人が交代させられる。
「前近代」と「ポスト近代」を選り分ける3ステップ:
明示化、標準・統合化、高度化
ところが、現場の業務プロセスの現状をみると、強い企業を除くと、それほどすっきりとしていない場合が多い。小さな現場毎に個別のプロセスはあるものの、諸現場を貫くような統合的なプロセスは、普通は存在しない。小さな現場内においても、そのプロセスが明示されて文書化・システム化されているところは、むしろ例外的で、多くは、形式知(近代)と暗黙知(前近代)のまだら模様である。「まだら」模様でありながら、なんとか回っているのは、属人的な知識と人間関係が、「つなぎ」になっていて、まだら模様がつぎはぎ的にかろうじてつながっているからである。
実は、この「人」に頼る危うさは、日本企業の業務プロセスが抱える前近代的な脆弱さであると同時に、ポストモダン的な先進性の源でもある。ある日本を代表する企業の30代のプロダクトマネジャーから、「自分には権限はないが、マーケティングはもちろん、製造から販売まで無限責任をもつ」と聞いた。職務権限をみてもそんなことは書いていない。でも、そのように信じて彼や彼の同僚は考え、動く。欧米企業であれば、プロダクトマネジャーは、現場の小プロセスについてのみ責任と権限をもつのだろうが、この日本企業では、現場の小プロセスを超えて、文字どおり始めから終わりまでを統合する責任を感じ動いている。彼は全社の主要機能を「経営」的に動かそうとしている。現場のプロダクトマネジャーの「(権限なき)無限責任」というコンセプトは、日本的現場主義の前近代性とポストモダン性の両面性を象徴的に示す。ここで、「一部平社員の無限責任など、『前近代的で属人的な状態』だから、短絡的に『近代化』しよう」などと思ってはならない。いちいち部門長やその上のトップマネジメントまであげなくても、現場の平社員プロダクトマネジャーが無限責任でものごとを動かす事態は、ある意味で先進的だ。他方で、無限責任コンセプトは、そのままでは海外には移植しにくいなどの限界を持つことも事実だから、そのまま放置するわけにもいかない。
そこで、課題は「前近代部分を近代化しつつも、ポストモダン的な強みを残すにはどうすればよいか」である。そのためのカイゼン策を考えてみた。
→ kaizen 1:明示化
まず、現状についてそれぞれの現場でしかるべき人が、プロセスを書き表してみるという作業が必要となる。文書があっても、それは実態と異なることも多い。そこで、まず、素直に、随所で、書き表してもらうことが必要だ。とにかくやっていることを順番に書いていく(インプット、スループット、アウトプット)。「書ける人」を、随所でうまく選ぶことが一つのコツである。
→ kaizen 2:標準・統合化
諸現場(開発・製造・営業現場など)において、現状プロセスを素直に明示したら、とにかくつなごうとしてみる。諸ラインのプロセスをまとめた製造プロセス全体とか、全社のプロセス全体とか、全部をつなごうとしてみる。そうすると、つながりの悪いところや、だぶっているところが自然に見えてくるので、そこをきれいにして「統合」していく。その際、徹底的にシンプルにすることを心がける。某企業の国際的なマーケッターの方が作成したものを拝見したが、業務プロセスの節目で用いる関連文書は、すべてA4 1枚にまとめ、誰が見ても一目でわかるように工夫されていた。そういう標準化を徹底していた。そこまでいけば外国語に訳すのも、海外でのローカル化も、システムに落とすのも、すべてやりやすくなる。同期化できるところも一目瞭然となる。同じ精神で、職務記述書も、定型化してシンプルにつくる。その際、業務プロセスの流れを重視し、無限責任社員も活躍できるように、個別の細切れの職務記述書ではなくて、業務プロセスのある部分をクリックするとポップアップするような、全体の流れの中で位置づけた職務記述書ができればよい(やってみると結構難しい!)。
→ kaizen 3:高度化
kaizen 1、2は、「近代化」作業だから、米国企業だろうと日本企業だろうと同じである。ところが、高度化では両者は異なる。米国企業は、IT化と外国人活用に走る。日本企業は、それも行うが、「日本人職人集団」によるファイナルタッチという高度化の手ももつ。和風高度化の香りをちょっとかいでみよう。例えば、カーアクセサリーをつくるプロセスにはカッティングする工程がある。この工程の高度化の一つは、レーザートリミングを入れることだ。ある企業では、実際、「真空形成の工程で、一気に吸引する作業とレーザーカットによるトリミング」について特許を取っている。そこでは、コンピュータを駆使した高度な加工が可能となっている。ここまでにもちょっとした和風は入っているが、和風味の決め手は、レーザーカットの後に、熟練工による手作業で細部を書く段だ。コンピュータ制御による工学的な高度化を上回る熟練工による手作業によってのみ出る精度を狙う高度化である。
さて、「業務プロセス」は、全自動のものを除けば、人がそこに入らない限り動かない。人材の品質が業務プロセスの品質に大きく影響する。さらに、業務プロセスの進化は、人なくしてあり得ない。業務プロセスの品質を左右する「人材」について考えてみよう。
まず、業務プロセスに即して、人材を追いかけてみたい。業務プロセスは、人材をインプットすることで始まるし、人材は業務プロセスで活動するために必要な知識やスキルをインプットする。次に、業務プロセスに入った人材は、そこで、「スループット」として、「行動」し、「成長」する。最後に、業務プロセスは、「アウトプット」として、「成長した人材(あるいは消耗して使えなくなった人材)」を送り出す。つまり、人は、業務プロセスを通じて、ホップ、ステップ、ジャンプして育つ(あるいは磨耗する)。そういう意味で、業務プロセスは人材育成の孵化器であり、学校である。
ところが、業務プロセスのアウトプットとして、普通思い浮かべるのは、「成長した人材」ではなく、「モノやサービス」である。強みの源泉としての業務プロセス自体を進化させるためには、業務プロセスを進化させる人の育成に、ぴったり焦点を当てるべきだ。今までも、「結果」的に業務プロセスによって人は育っているのだが、それを一つの「目的」とすべきだろう。生産ラインや営業活動は、モノや売り上げだけではなく、高度職人や営業のプロであるべきだ。そういう視点で、業務プロセスを教育プログラム化すべきではないか。いわゆる研修やOJTという位置づけではなく、業務プロセスそのものが教育課程となるように構成し直すべきではないか。そういうスピリットで、業務プロセスを教育課程としてとらえる場合、「標準教育」と「高度教育」に分けて考えるとよい。
「標準」業務プロセス教育課程
「標準教育」は、標準化された業務プロセスに対応していて、徹底的なカリキュラム化を進めることができる。必要な知識、手順、標準所要時間を明示する。具体的には、業務プロセスのある部分を担当する人のための職務記述書が、講義内容(業務内容)のシラバスのようになる。それは、結局のところ、業務プロセスに沿って、インプット、スループット、アウトプットという流れの構成となる。加えて、職務にとってのプロセスの中での肝の部分を取り出して代表させて特徴を浮き彫りにする。例えば、マネジャーの焦点はアカウンタビリティ(アウトプット)であり、入門者の焦点はスキルレベル(インプット)である。
そういうカリキュラムを示した上で、人を募集し、学校と同じく、入学試験を行う。標準教育の入り口は、門戸を広く開けてよい。いったん入学した人は、業務プロセス施行を通じて、期待される成果を生み出すとともに、知識・技能を身につけ、経験を重ねる。期末には評価が行われて、卒業できるか判断される。期限のない学校教育がないように、業務教育(=業務プロセス)もすべて期限を設ける。普通の人は、その期限がきたところで、卒業試験を受け、先(次のレベルの業務プロセス)に進む。試験といっても、それは日々の活動でよい。そこに試験は組み込まれている。毎日が試験だ(あるいは業務プロセスの一区切りのところが試験終了だ)。卒業できない人は、落第する。当然、居残り勉強や追試もある。留年は、後続の教育機会を奪うことになるから原則許さない。他方、特によくできた人は、学校に残ってその業務プロセス担当助手や教授になってもらう。もし本当に学校としての価値が出てきたら、給料を払うのか授業料をもらうのか、ぜいたくな悩みを抱えることになるかもしれない。
「高度」業務プログラム教育課程
さて、標準教育は、気のきいたOJTをやっていたところなら当然やってきたことだろう。これに対して、高度教育に、本気で取り組んでいるところは少ないのではないか。実は、業務プロセスの高度化、特に和風高度化は、日本企業の競争力のエッジ構築作業であり、それを担う高度人材の教育はまさに競争戦略だ。ここにこそ、日本の歴史文化的な英知を結集し、日本人以外には容易に真似ができないようにしたいものだ(できるかな?)。先人の知恵を拝借しつつそのさわりを描いてみよう。
まず、日本企業に存在する「高度人材」を俯瞰すれば、グローバルに見ても強みを誇れるのは、現場の「高度職人」と現場の「高度つなぎ人材」だろう(「高度職人」と「高度つなぎ人材」の意味はかなり広くとっている。専門家とかプロといわれる人はほとんどがいずれかの候補である)。現場を超えた経営者も高度人材なのだが、例外はあるものの日本企業の強みとはなっていない(これ自体看過できないがここでは扱わない)。そこで、「高度職人」と「高度つなぎ人材」に絞って教育のポイントについて述べたい。
コンピテンシー(性能)記述書
いずれの場合も、高度人材の技は、それを分解して、こういうステップでやればx x 年間で身につきます、などと言えるような代物ではない。そこには才能の問題や適性の問題があるし、その技のすごさは、標準化できる「業務プロセス」ではなくて、高度職人や高度つなぎ人材の「コンピテンシー(性能)」にある。(業務プロセスの一部としての)職務記述書よりも、コンピテンシー(性能)記述書が必要となる。その際、コンピテンシーをどういう形で押さえるかが重要で、通常のコンピテンシーアセスメント(報告書)より、かなり詳しめの人材性能データが必要となる。通常のアセスメント報告書は、1、2ページ程度のサマリーである。性能記述書は、そうしたサマリー的な記述に加えて、もともとのコンピテンシー・インタビューで聴き取った、テーマ、プロセス、具体的な思考や行動事実を、映画のシナリオのように忠実に書き表すことが必要となる。そこまでやって初めて教育に使える「高度物真似」の台本となる。さらに、高度職人のように動作が重要な場合、実際の撮影も欠かせない。動作を細かく追って解説するマルチメディアのコンピテンシー記述書が、高度教育における虎の巻となる(通常の「業務プロセス」の記述では粗すぎて高度職人の技の秘密はこぼれてしまうわけだが、プロセスよりずっと詳細な「動作」の精妙な動きまで見えるようになると、秘密が見えてくる可能性がある)。ちょっと脱線すると、私が、シリコンバレーで知り合ったNLP(Neuro-Linguistic Program)の創始者のジョン・グラインダーは、フランスの香水職人(プロは「鼻 nez」と呼ばれる)の職人技をどうやってコピーするかという研究に取り組んでいた(いくつもの紙片に香りをつけてぐるぐる回して、紙片を取り替えながら香りを作るらしい)。彼は、言語学者で、言語習得における物真似を極めようとする中で、人の動作をコピーする技を開発した。彼の模倣術の秘密は、プロセスに沿って動作を忠実にコピーしつつ、表面のプロセスに現れない微妙な動きのニュアンス的なものも盗み取ってしまうことにあるらしい。
七面鳥じゃなくてリスを選抜
次は、高度教育課程への「入学試験」である。企業用のコンピテンシーというコンセプトを創った人によれば、「木登りは、七面鳥に教えることもできるが、リスに教えたほうがいい」。高度な部分については、名人の貴重な時間を誰に対して投資するか、という選抜が重要だ。その方法としては、候補人材を集めた人材開発会議(候補が、これまでの業務プロセスで何を考え、どう行動し、どんな成果を挙げてきたかというストーリーを語り、名人たちが質問しながら選抜する会議)、現場での作業テスト、などがあり得る。ものによっては、ある程度のところで、とにかく配置してしまって、そこでうまくはまって、期待どおりの行動や成果が出るかとか、名人との相性を確認するのが手っ取り早いだろう。他方で、その高度教育課程の内容について、業務プロセスや名人のコンピテンシーなどの情報を発信して、候補たちが、自分の特性や成長を考えて応募するのも大切である。それが自分にとってやりたいことかどうか、が高度の「道」に入る上で、一つのファクターだ。好きだからうまくなれるとは限らないが、嫌いではうまくなれない。
教育課程:型を習得する高度職人の場合
では、そのようにして選んだ人をどう教育するか。高度職人の場合は、「一事徹底」型の教育となる。それは、現場で場を共有しながら見えることや見えないことを摺り込んでいく過程だ。芸事や武道の「型」の習得プロセスのようである。名人の「型」は、外から見ても美しい。また、どういう手順でやっているかというプロセスも、早業ではあるが、一応わかる。でも、そのプロセスを真似してもあの軽やかさ、精密さ、繊細さ、美しさは、出てこない。誰でもわかってすぐ真似できる標準プロセス以外のところに、型の秘密がある。型の習得過程は、よく言われる守・破・離の段階を経る(これもプロセスだが、欧米生まれのプロセスと一味違う)。守は、自分の先生から教わることをそのとおり守って、それができるようになる段階だ。お茶の先生とかお花の先生が言ったとおり練習して、先生のようにできるようになる。型の習得においてもまずは標準形をしっかり真似ることが大切である。守の段階でできるようになるといっても、それは一応できているように見えるというレベルだ。ところが、人間はみな、体の特徴も頭も性格も異なるから、完全に真似をしたつもりでも、絶対に先生と同じにはならない。真似ができるようになったと思う頃からでも、おや、自分のやり方は先生とちょっと違うなと気づきだす。そして、いっそのこと自分のユニークなやり方を極めてみようと思う。そして先生のやり方を破るようなものができたらそれが破。悪く言えば、我流、よく言えばユニーク。そこからさらに道を極めていくと、先生のやり方(守)からも、自分のやり方(破)からも離れたもっと普遍性をもった新しい流派、新しい型ができてくる。その進化した型からみれば、先生のやり方はその一つのパターンだし、自分のやり方も別のパターンだと見えるようになる。つまり、先生を完全にここで超える。大げさにいえば、人類に普遍的に貢献できるような何かを作ったことになる。パラダイムシフト的な統合である。
少し、伝統的な型の世界に入りすぎたかもしれないが、もっと身近なところでも型の習得のきざしはみられる。例えば、ある企業のマーケティングのプロは、海外の人に、「データ分析のやり方(型)」を教える場合、まずは、標準的な業務プロセス(手順)を図で示して教える。その後、現地に日本のマーケティングの名人が出張し、一日つきっきりで、現場で、データ収集、データのどこに注目するか、それをどの分析手法で分析するか、その分析手法で分析した場合の弱点は何か、それはどう補うのか、など、丁寧に教えていく。いわば「知的同行訪問」を通じて教える。営業の同行訪問でも同じだが、目で見えるような動作、発言の模倣と同時に、その理由や動作では見えない部分の解説、などを合わせることがポイントである。そのプロセスにおいて、「この部分は勘で決める。経験に基づく勘だ。だからあなたはまだ修業する必要がある」みたいなことも言って動機づけたり、突き放す。高度職人研修は現場のプロセスに入って行う。
異動が育てる高度つなぎ人材
日本企業の現場の強さを考えるとき、いろいろな現場を経験して、諸現場のプロセスの間を、変幻自在につなぐ「高度つなぎ人材」も見逃せない。今風に言えば、一方で、モジュールと言えるような小現場のプロセスがあり、そのモジュール・プロセスは一事徹底職人が磨き上げることに専念する。他方で、モジュール間のつなぎやモジュールと環境とのつなぎは、諸現場のモジュールを体でわかったつなぎ人材が柔軟につなぐ。めったに異動しない一事徹底の高度職人と、異動を繰り返す高度つなぎ人材の組み合わせのあやが、強みの源泉だ。そういうつなぎ人材は、諸プロセスの随所にはまっている。例えば、研究所で、研究者としても高いレベルに達していると同時に、マーケティングの人や管理部門に友人ももつし、共通言語ももつ。先に述べたような無限責任社員もこういう中から生まれる。さらには社外に対してもつながっている。こうしたつなぎ人材は、異動を繰り返すことによって初めて生まれる。高度のつなぎ人材の存在によって、諸プロセスのすみずみまで、血と神経信号が行き渡る。
日本企業の本質は、「個」ではなくて、個を超える「つながった型」(=業務プロセス)
高度職人のところでお話しした「型」は、個人を超えた存在である。現場のプロセスが強い企業において、「個」人よりも、現場に宿る「型」が、より本質的な存在である。名人も「型」を進化させる媒体にすぎない。異なる人のエキスが入って、業務プロセスの型には独特の味わいが出てくる。高度つなぎ人材がもつ「つなぎの能力」や「人脈」などは、その会社における諸プロセスや人材があって初めて価値を発揮する。しかも、いろんな特質をもったつなぎ人材がある程度いることで、本当の意味のネットワーク効果も出てくる。共感性の高い人間「関係」が本質的である。もし、個人が市場における個人のキャリアを優先し、会社を渡り歩くならば、こういう人材は生まれようもない。個を超えた「型」や「つながり」をベースにした「現場の業務プロセス」は、まさに、社内的公共財である。いや社内だけではない。「つながった型」を体現する「業務プロセス」は、人材市場から個を超えるセンスをもった人材を惹きつけ教育し、顧客市場に向けて個にはできないユニークな価値を提供し続けるから、文字どおりの公共財かもしれない。
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